「正しさ」って何?

一心塾だより 第92号

 「人は優しくあるべきだ」と常々考えているA子さんは、夫や子どもにもできる限り優しく親切にしています。一方、夫のB介は「何事もきちんとしているべきだ」と常々考えていて、A子や子どものちょっとルーズなところを厳しく注意します。

 注意されるとB介に優しくする気が萎えてしまうA子は、「これくらいで優しくなれなくなるなんて、ダメな私」と、自分に優しくする気持ちも萎えてしまうのを感じます。加えて子どもも、自分のことは棚に上げて「ママ、ちゃんとしてないよ!」と夫の言い方を真似したりするものですから、子どもにも優しい気持ちが持てなくなりつつあります。

 ある日、子どもが遊びに来ていた級友にちょっと意地悪な言い方をしたものですから、「そんな言い方ダメでしょ!優しくしてあげなさい」と叱ったら、「クソババア」と小声で言われてしまいました。

 やれやれ、ハァ~という展開ですが、どこの家庭でもありそうな話かもしれません。常々考えていること、つまり固定観念は、ずっと馴染んでいるうちに無意識化してその人の人格の一部のようになっていきます。そして、「人はそのように考えるべきである」と自分を正当化し、そう考えられない人は間違っている、と怒りを感じるまでになります。

 固定観念は地域や組織にも暗黙的に存在しています。宗教にはもう少し明示的に存在しています。それを息苦しく感じてそこから離脱しようともがく人に時々出会います。不登校や家出にはそういう事情があるのかもしれません。またそうやってもがく人の頭にも固定観念はあるものです。固定観念どうし、互いに「正しさ」を主張してぶつかり合うのが世の常です。

 自分が持っている固定観念に気づくのは意外に難しいものです。でも誰かのことを腹立たしく思うときは、ほとんどの場合、固定観念が背後にあります。腹が立ったらチャンスと思って、自分がはまり込んでいる固定観念を意識化するようにしてみてください。「そういう固定観念が自分の中にあるな」と気づいているだけでも腹立たしさが軽減するのではないでしょうか。

 次に、できれば相手の立場に立って見ることをお勧めします。すると相手がはまり込んでいる固定観念が見えてきます。固定観念どうし、どちらが正しいか決着をつけようとすれば喧嘩になります。どちらにも一理あるのです。でも一理でしかありません。その一理を盾や矛にして喧嘩するよりは、仲良くあることを、人は本質的には求めているはずです。  自分と相手、双方の固定観念に気づいたうえで、リラックスして「本当は、どうありたい?」と自分に問いかけて見ましょう。これを「関係性フォーカシング」といいます。ゆっくり、何回かに分けて、問いかけるうちに、ふと次なる一歩が見えてくるものです。