「自分」って何?

一心塾だより 第103号
「自分」という言葉は「自」と「分」がくっついていますが、「分」とは何でしょうか?
私は「領域」と考えます。 「自分」と「自分以外」の境界があって、その内側の領域に対して、人は「自分」という感覚を持っているのではないでしょうか。もし「自分」を英語に訳すなら「マイ・テリトリー」とか「マイ・ドメイン」とかになるのかもしれません。

「自分」、つまり自己意識が及ぶ領域としてまず思い浮かぶのは「体」です。おそらく「私の体」と言うより「自分の体」という言い方をすることが多いのではないでしょうか。他にも「自分の考え」「自分の感情」「自分の土地」「自分の財産」という言い方も良くするでしょう。「自分の・・」というときの「・・」に対しては、何となく自己意識が及んでいるわけです。
自己意識が及ぶ領域には、所有意識や管理者意識が何となく伴ってきます。そして人は知らず知らずのうちにそこに執着するようになります。執着すると、それが侵害されかかったときに非常に腹が立ちます。また手放すときに苦痛を感じます。「・・」に対して私たちは管理責任を果たすべきなのですが、執着はしないほうが良いでしょう。
丁寧に一つ一つの「・・」に対して意識し直し、「これは私に管理責任はあるが、『私』そのものではない」と捉え直していくと良いと思います。それによって感情的にならずに済みます。仮に侵害を受けても、冷静な対応ができるでしょう。侵害しようとする人は、あなたの「・・」を「こっちの分だ」と勘違い的に執着しているのです。
ところで一つ一つの「・・」を意識し直したら、最終的に「自分」の領域はどれくらい小さくなるのでしょうか?「自分」の最小単位とはどんなものなのでしょう?
考えや感情に執着しないでいることは可能です。欲求にも執着しないほうが良いでしょう。五感への執着はそれほどないしょう。視覚や聴覚は「自分の感覚」というよりは、複数の人で同じものを見たり聞いたりして共有できるわけですから。
おそらく「自分」の最小単位は「感じ」ではないかと思います。「自分の感じ」という言い方はよくなされますね。何かを感じているから「私」という存在、つまり「自分」を自覚できるのです。熟睡しているときは、何も感じていないので「自分」を失っています。
「自」と「感じ」はセットで出現して「自分」という意識が生じます。「感じ」がなければ「自」はなく、「自」がなければ「感じ」はありません。そして「感じ」とは“何かについて”の「感じ」に他なりません。例えば「疲れた」の感じ、「明日の予定」についての感じ、「だめな自分」という感じ、無数の“何かについて”の感じが無数の「自分」を出現させますが、おそらく脳の統合機能のお陰で「自分」という一つのまとまりでいられるのでしょう。
感じは自分そのものですから手放しようがありません。でも手放さなくても感じはすぐに消えますし、すぐに変化します。だからこそ大事にしたいと思います。いろいろ考え始めると、「自分」とは不思議ですね。