如と慈悲
先日、6月26、27日に、札幌フォーカシングプロジェクトの皆さんの主催により、日本フォーカシング協会年次大会(フォーカサーの集い)がZoom開催されました。
その中で、「ジェンドリン哲学や仏教をからだで感じて語り合おう」という出店企画があり、ジェンドリン哲学については田中秀男さん、仏教については私が最初のプレゼンを行いました。司会はこの出店の企画者であるフォーカシング・プロジェクト代表の笹田晃子さん、また出店発案者は仁田公子さんです。 田中さんは、著名なフォーカシング教師であるアン・ワイザーの著作からの引用で次のようなフォーカサー(F)とリスナー(L)の受け答えを例示しました。
F:「それが悲しく感じています」
L:「今それが悲しく感じているんですね」
F:「”それ”が喉のほうに上がってきました」
L:「悲しさがあなたの喉のほうにあがってきているんですね」
”それ”は「悲しさ」そのものではありません。それをLの早合点で「悲しさ」と理解してしまっては、Fは理解されている気にはならないでしょう。ここでは”それ”はあくまで”それ”と伝え返すべきところです。
田中さんのこのプレゼンを受けて、私は、仏陀は「神」という言葉は使わなかったということを述べました。代わりに「如」と言い、仏陀は自身のことを「如来」と自称しました。「如」は「それ」と言い換えても良いでしょう。概念化することが不可能な何かです。概念化すれば、「それ」は「それ」でなくなってしまうのです。
フォーカシングを実践する人も如来です。常に概念を超えていきます。そういうところがフォーカシングと仏教の大きな共通点と言えるかもしれません。
出店の中で、慈悲についてはどう考えるかという趣旨の質問を受けました。「慈悲」も概念化されてしまっては、何だかつまらないものになってしまうような感覚を私は持っています。
私はスクールカウンセラーとして学校訪問をするのですが、小学生などは私のような珍客を面白がり、暖かく迎えてくれます。あの子たちは「慈悲」なんていう概念を持っていないでしょうが、私にとってはあの子たちの存在は慈悲そのものです。ペットを飼っている人も、ペットから毎日慈悲を受け取っているのではないでしょうか。また、私たちは自分のからだからも、この一瞬一瞬に慈悲を受け取っていると言えます。
「慈悲の心を持ちましょう」などと諭された途端、私たちの心のなかで「慈悲とはこういうもの」という概念が生じ、そこから容易に抜け出せなくなり、その概念から外れる言葉や行為に接すると、慈悲どころか怒りが生じたりしないでしょうか。 私たちはすでに「如」であり「慈悲」です。それを「如」や「慈悲」であろうと意図することによって、逆の作用が働くこともあるだろうと私は思うのです。