寛容さと心の拠り所

 「多様性を受け入れる寛容さ」というテーマで一心塾だよりを書きました。そして、そういう寛容さが、そのまま「心の拠り所」になるという私なりの結論を出しました。

 たとえば世の中には「異教徒を殺せば、神に喜ばれ、天国に行ける」という教えを心の拠り所にしている人たちがいます。不寛容極まりないですね。同性愛者は死刑になりうる国が今でもありますし、過去にはなにか不吉なことが起こると魔女のせいということにして、無実の女性を死刑にするということが頻繁に行われていた地域もあったわけです。

 たいてい宗教が絡みますが、宗教に世の中の秩序を保つ役割を追わせると、このような外的な価値観の押し付けによる不寛容が生じるようです。

 現代では多くの国が政教分離して、政治が秩序を保つ役割を負っていますから、民主政治が機能していれば徐々に多様性を受け入れる寛容さが育っていきます。

 社会が寛容であれば、私たち一人ひとりが自分のありのままでいられるようになります。自分がありのままでいられるように、他者に対しても寛容であるというごく当たり前のことを心の拠り所にするのは素敵なことではないでしょうか。

 ただしそれは、常に私たちの心の中に生じてくる「自分が正しくて、相手は間違っている」という意識や、あるいは「自分の正しさに自信が持てないから、誰か外的な価値観を示してくれる人に従いたい」という意識に気づいて向き合い続けるということでもあります。