心身の慈悲

一心塾だより 第99号
コンパッション(compassion)という言葉が心理学好き界隈で流行っています。辞書的には「思いやり」「慈悲」「哀れみ」「深い同情」というような意味ですが、仏教では仏の慈悲という意味でよく使われています。以前、イギリスやアメリカの仏教寺院を訪れたとき、向こうの僧たちが読み上げる英語のお経に「コンパッション」という言葉が何度も出てくるのが耳に残っています。

このコンパッションを取り入れた心理療法が最近創始され、「コンパッション・フォーカスト・セラピー」(CFT)と呼ばれています。競争や批判に曝され、傷つきながらもそれを顔に出さずに生活せざるを得ないのが現代人ですが、自分自身に対して慈悲深く接する方法を提唱しているのがCFTなのではないかと思います。「マインドフルネス」ブームに続いて「コンパッション」という仏教由来とされる心理療法がもてはやされている印象です。
ただ私は、この最近流行りのコンパッションに違和感を覚えています。仏教では慈悲を施すのは仏であって、施されるのが私たち衆生です。ところがCFTでは慈悲を施すのは自分であり、施されるのは自分自身ということになっているようです。コンパッションを「思いやり」と訳すなら良いかもしれません。自分が自分自身に思いやりを持つのは勧められることですから。
マインドフルネスも宗教性を排除して「科学仕立て」で世に出したから医学や心理の成果で受け入られたという経緯があります。CFTもそうせざるを得ないところもあるでしょう。しかし慈悲に関しては、慈悲を施す側が自分であるというのは自我意識の消えようがないわけですから、臨床的に効果が証明されているとしても「仏教由来」を匂わせるのはやめてもらいたいと思うわけです。
代わりに私がお勧めしたいのは、心身が私たちに対して慈悲を施しているという考え方です。すべての内臓や神経が私たちのために片時も休まず尽くしてくれています。これは慈悲以外の何者でもないと私は思います。仏の慈悲を体感するのは稀なことと思いますが、内臓や神経の慈悲はいつでも体感できるものです。そして瞑想する人、フォーカシングする人は心の慈悲、あるいは“からだ”の慈悲を感じることができます。
このように内なる慈悲を受けながら“生かされて”いる私たちですが、そのことに気づかず心身を疲れさせ、痛めつけるようなことばかりやってしまうのが自我に囚われた私たちの姿ではないでしょうか。「私が」という自我意識からの発想は心身の慈悲にくらべればお粗末なものなのに、「私が」という意識に固執する傾向を持つのがまた自我意識というものなのです。
人は人を側に感じるだけで意識が変化します。人は居るだけで慈悲的な側面を持っています。ただしそこに自我意識が介入するとどうもうまくいかなくなることが多いので、むしろペットに側に居てもらいたいと感じたりします。自我意識はどうにも厄介ですが、せめて心身の慈悲を常々感じ、「いいね、ありがとう」とつぶやきながら暮らしたいと思います。