教えて、ガネーシャ
一心塾だより 第94号
私の自室はインド、チベット色が濃い。腰高の棚にはお釈迦様の坐像、踊るシバ神像、自分で彫った地蔵尊二体、名古屋の花博に行ったときチベット館で購入した磬(きん、「くぉ~ん」と鳴る法具)、その棚の前面をカバーするガネーシャ柄のカーテン。机にはガネーシャ坐像、五鈷杵(ごこしょう、楽健法の山内先生から頂いた密教の法具)、壁にはチベット旅行時に購入した大きな曼荼羅、インド滞在中に撮った早朝のガンジスの支流の川辺に集う人々の写真、アーチのアーサナを披露する子どもたちの写真などなど。
ここにカウンセリングのお客さんをお迎えするのだからびっくりされると思いきや、あまり気づかれることなく相談内容に入っていく。部屋を見回す余裕はないのが普通だろう。帰り際の玄関で「きれいにしておられますね」と言われることはときどきある。妻が毎日掃除していて、家中ピカピカだからでしょうね(感謝しています)。
『夢をかなえるゾウ』というシリーズ累計460万部の自己啓発小説(水野敬也著、文響社)をご存知だろうか。ゾウとはガネーシャのこと。顔がゾウで手が4本あるインドの神様である。シバ神の子どもらしい。一人暮らしの駄目サラリーマンのアパートに突然現れて、わがまま放題するので辟易しながらも彼を少しずつ目覚めさせていく。
「世界中の成功者の共通点はトイレをピカピカにしていることやでぇ」と、なぜかコテコテの関西弁で、自らトイレ掃除しながら彼を諭す。トイレの外に漏れそうで悶絶している彼を待たせながら。その日出勤した彼は、何故か自分のデスクの散らかり方が気になって、まずきっちり片付けてから仕事に臨んだら、思いの外気持ちよく仕事がはかどったのである。一番面倒なことを先にやってしまえば後はラクラクなのだと彼は気づかされた。
この小説のガネーシャはあまりにも破天荒で、人間的すぎるくらい人間的で、ときに怒り狂った彼と取っ組み合いになったりする。案外「教え」というのはそういう対等な関係のほうがよい伝わり方になるのかもしれない。
偉くて尊敬できる人からの教えを信奉すると、その人の「信者」になってしまって、自分で考えることをしなくなってしまうかもしれない。考えたとしてもその教えの枠組の中でしか考えることができない。自分の身に刺さることについてはしっかり自分に取り込んでいき、あまり響かない教えは無視するでもなく、ちょっと周辺に置いとくとそのうち響いてくることもあるだろう。
フォーカシングの創始者ジェンドリンは「交差」を大事にする。それは何かの刺激に触れること。そのとき私たちの体験過程(前号参照)は微妙に変化する。ところが刺激に強制力が加わっていたりすると、体験過程は逆に硬化するものである。交差は暗示的なところがよいのだ。ガネーシャのように明示的に教えるには上から目線でなく、関係性を対等にする巧妙な仕掛けがほしいなあと机のガネーシャを物欲しげに見る。