ドラマで考える甘え欲求

 朝ドラ「カムカムエヴリバティ」で、ヒロイン安子の兄算太(濱田岳)は、思いを寄せる女性の不義に絶望し、兄妹で懸命に稼いだ家業の和菓子屋の再建資金を持ち逃げしてしまいます。

 算太は自分の傷つきは自覚できていたでしょうが、人生で共感された体験が足りないようで、「誰かに迷惑をかけてもしょうがない、オレのせいじゃない」という拗ねた気持ちに支配されてしまっていたようです。

 私たちの言動や思考の背後には複雑な欲求があります。その欲求に気づいていれば、問題の少ない方法を考えることができますが、気づいていなければ、おかしな因果を生み出していきます。

 欲求というものは、一度は満たされないと、その存在が自覚され得ないのかもしれません。自覚されない限り、私たちの思考・言動はその欲求の影響を受け続けてしまいます。欲求は奥深く何層にも重なっていますから、自覚され難い奥の方の欲求にはどうしても長い期間影響を受けることになります。そして最奥と言えばやはり甘え欲求なのです。できれば早いうちにこれに気づくことが不幸な因果を生み出さない要諦と言えるでしょう。

 算太の持ち逃げに端を発した運命の悪戯から、安子は6歳の愛娘るいの心を深く傷つけてしまい、るいから「I hate you.」と言われてしまいます。しかも幼い頃に交通事故で負った額の傷を、前髪をかき分けて見せつけられながら。まるでホラーのようなワンシーンでした。

 ドラマは18歳になった娘るいが主人公になって展開中です。彼女のトラウマは額の傷に象徴化されていますが、今後どんなふうに額と心の傷が癒やされていくのか、目が離せません。

 甘え欲求の一つに感情を受け止めて欲しいという共感欲求があります。幼い頃、泣けば「泣くな」、怒れば「お前が悪い」と叱られることが多かった人は、共感欲求を自覚できず、むやみに人に腹を立てたり拗ねたりしていることでしょう。また、ありのままを受け入れてもらいたいという受容欲求も、自覚できていない人が多いかも知れません。すると、他者と信頼関係を築いたり、すんなり人の輪の中に入っていったりすることに難しさを感じることでしょう。

 このように精神分析的に、知的レベルで心を理解することは、自分や他者の奥深く複雑な欲求について理解する上で大事なことだと思います。それは人間という深い森を探索する際の地図の役割を担うでしょう。

 しかし地図ばかり見ていても、森を味わうことはできません。あらすじを聞いて物語を理解したと勘違いするのに似ています。何より、欲求を知的に理解されても甘えが満たされるとは思えません。大事なのはやはり実際に共感され、受容されることです。

 共感、受容欲求が満たされたさらにその奥にある甘えが、一体感への希求です。甘えの真髄、神秘の領域にある欲求といってもよいでしょう。私がフォーカシングを好むのは、この一体感への希求が一定の道筋を経て比較的容易に満たされるからです。そして理論的にも整備されているからです。

 何らかの甘え欲求が満たされると、私たちはそれを満たしてくれた相手に対して自然に感謝の気持ちを持つようになります。また一体感を覚えさせてくれた相手に対しては何らかのお返しをしたくなります。何しろその相手は他人のように思えないのです。もしあなたが動物や自然に一体感を覚えているなら、きっとすでに多くのお返しをそれらに施していることでしょう。

 繰り返しになりますが、理論は地図です。地図があるから行きたいところにすんなりと行けます。迷っている人には大きな恩恵です。精神分析的な理論はもちろん、社会学や歴史の知識も非常に役立ちます。なぜなら、社会や歴史は人の複雑で奥深い欲求を映し出す鏡でもあるからです。

 迷いながら新しい地図を自分で描きたいタイプの人もいます。それはそれで大変すばらしいパイオニア精神だと思います。迷うこと自体を楽しめるのでしょう。

 文学や映画、ドラマは私たちに共感や一体感を感じさせてくれる最も手軽な方法であることは間違いありません。もしよかったら、感動させてくれた作品の何がどんなふうに自分に影響を与えたのか、書いたり語ったりしてみてはいかがでしょうか。言語化は、甘えを満たすために必要な地図を自分で描いていく方法と言えます。

 最後に自分の甘えを見出すための、自分への問いかけを述べておきましょう。
① 私は、あの人が私にどうをしてくれることを期待している(た)のだろうか?
② 私は、(家族、職場、コミュニティ、国家)が私に対してどうしてくれることを期待している(た)のだろうか?
③ 私は、私自身がどうすることを期待している(た)のだろうか?