根っこをどこに張りますか?

 幼児は親に依存しなければ生きていけません。だから必死で親を求め、親もそれに応えます。ところが、ときに子の求めに対して親が応えられないことがあります。例えば下の子が生まれて、親の手がそちらに取られてしまうときや、親が精神的に疲れているときなどです。 

 子は甘えたいのに甘えられないものですから、甘え方が巧妙になります。年齢不相応に「いい子」になり、親に面倒をかけないように振る舞うことで、褒められることを狙うというパターン、ちょっとわざとらしく辛そうにして親の注意を引こうというパターン、甘えさせてくれない親に敵意を示すパターン、甘えが無視されて傷つくことを恐れるあまり、親に近づこうとしないパターンなどがあります。こうした親への接し方のパターンは、対人関係パターンとして身近な他者に対して再現されます。

 ここで考えてみたいのは、もうそれほど親に依存しなくても、ある程度自分のことは自分でできるようになっているのに、どうしていつまでも依存しようとするのか、その欲求の根っこは何なのかということです。

 それは心理的な安心感を得たいから、と私は考えています。「あなたのことを大事に思っていますよ」という実感が子どもには必要なのです。親は大事にしているつもりでも、子どもがそう感じていないのであれば、甘え行動はしつこく繰り返されます。私たちは、自分で自分の安心感を確保できない限り、誰かに安心させてもらいたいのです。

 では、安心感を自分で確保するにはどうしたら良いのでしょうか。また、すでに安心感を確保している人は、どうやってそこにたどり着いたのでしょうか。そのような人はどのように身近な人たちと付き合っているのでしょうか。いろいろ疑問が湧いてきます。

 20代の頃、内観を受けたことがあります。1週間部屋の片隅に屏風を立ててこもり、親にどんなふうに世話になり、迷惑をかけてきたのか、またどんなお返しができたのかということを考え続けるという結構な荒行です。1時間に一回面接者がやってきて、どんな事を考えたか聴いてくれます。内観を通じて、いかに両親に心を掛けてもらったかということが身に沁みました。そしてそれは、母なる存在、父なる存在に根を張る体験だったようで、不思議な安心感が今にいたるまで続いているように思います。

 自然の中で相互協力的なコミュニティに暮らしている人や、一生続けていけるような天職を持っている人にもどっしりとした安心感を感じます。自然や仕事に根を張っていらっしゃるのでしょうね。良質な宗教も人に安心感を与えます。

 そして瞑想も安心感を高めます。どんな思いにも気づいてありがたく受け入れていくという姿勢は、内なる自然に根を張ることではないでしょうか。瞑想は最も簡単にできる、非常に効果の高い安心感を得る方法です。

 安心感を得ることで、私たちは不安定な人間関係に根を張ろうとして、お互いに傷つけ合うという愚を犯さなくて済むようになります。

ヨーガ3分話

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