般若心経の世界

 7月から毎月の一心塾読書会において、般若心経を取り上げています。

 般若心経はご存知のように「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見 五蘊皆空 度一切苦厄」と始まります。岩波文庫『般若心経 金剛般若経』のサンスクリット語原典の翻訳では「求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見極めた。しかも彼はこれらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった」となっています。

 存在の五つの構成要素(五蘊=ごうん)は、色(=しき、物質)・受(=じゅ、感受)・想(=そう、表象)・行(=ぎょう、意志)・識(=しき、認識)とされています。色以外は精神作用です。存在の構成要素の5分の4を精神作用としているわけですから、仏教がいかに精神作用を重視しているかということがわかります。

 1万円札が机の上に無造作に置いてあるとしましょう。一万円札は物質つまり「色」です。これを見たとき、「おっ」と思うでしょう。それが「受」です。そして「1万円だ」と意識化される段階が「想」です。それから、この1万円があればあれが買える、あの支払いができる、などと思いが湧いてくるところが「行」です。こうした一連の認識作用を経て、私たちは1万円札という紙切れに対して、価値を授け、人によっては欲求や感情を付随させます。つまりフィルターを掛けてこれを見ます。このフィルターを「識」と言うわけです。識によって物質は色付けされるから、般若心経を中国語翻訳した孫悟空でおなじみの玄奘三蔵法師は「色」という漢字を当てはめたのではないでしょうか。

 ところで「識」は「概念」としても良いでしょう。ものや状況に概念を当てはめることで私たちは「わかった気」になって心を落ち着かせるのですが、その概念によって私たちは縛られてもいます。

 日本仏教では伝統的に「色」を「身体」と解釈してきました。でもそれではどうしても腑に落ちないのです。本当は「物質」でもまだ不満です。先ほど私は「一万円札が机の上に無造作に置いてある」と書きました。これは状況を表しています。この状況に対して、それに続く精神作用が起こります。もし自分の財布のなけなしの1万円札を見たなら、違った色付けがなされることでしょう。だから私は「色=もの・状況」と解釈したいのです。この解釈はキャロライン・ブレイジャーの『自己牢獄を越えて~仏教心理学入門~』に影響を受けたものです。この本を読んで、私には般若心経の世界が一気に開けました。

 五蘊について考えるときに、フォーカシングを愛好する人は、「フェルトセンス」つまり、ものや状況に対応して生じるからだの感じは五蘊の何に相当するのだろうという疑問がわくでしょう。私はフェルトセンスは「行」に相当すると考えています。

 先ほど「行=意志」と簡単に述べましたが、これでは実は簡単すぎるのです。伝統的には「心的形成物」と解釈されます。「印象」と言われることもあります。平家物語で有名な「諸行無常」の「行」でもあります。もし「諸々のフェルトセンスは無常である」としてみるとどうでしょう。

 先ほど1万円札を例に取りましたが、お金に対して誰しも何らかのフェルトセンスを持っています。これは結構固定的です。お金がない人はお金がない人特有のお金に対するフェルトセンス(からだの感じ)を持っていますし、金持ちはまた金持ち特有のそれを持っていることでしょう。諸行無常とは、たとえお金がないままでも特有のフェルトセンスは変化するものだよと言っているのです。

 外的条件は同じでも感じ方は変わり得ます。私たちは、生まれながらの境遇や今いる環境に心まで縛られているわけでは決してない、ということを「諸行無常」という言葉で宣言しているのです。なぜなら行も空だからです。フォーカシングを体験している人はこのことがよく分かるのではないでしょうか。

 「空」とは、すべてのものは関係によって成り立っていて、単独で存在することはあり得ないという存在の原理です。1万円札にしても、紙とインクで成り立っていますが、それ以上に日本銀行がこれに1万円相当の価値を認めるということが関係し、さらに日本国民がそれを信用するということが関係しています。だから1万円札は空なのです。

 色即是空とはそういうことです。すべてのもの・状況は関係によって成り立っています。同様に受・想・行・識も空です。単独で厳然と存在するということはあり得ません。でもそれでどうして「度一切苦厄(一切の苦しみが無くなった)」なのでしょうか。注意してみると、この言葉はサンスクリット原典には載っていません。翻訳者の玄奘が勝手に付け加えたと考えられています。

 お金がない、仕事がない、病気、孤独などの苦しみが無くなるというのは、お金が儲かり、仕事が与えられ、病気が治り、友だちができることによってではないのです。それらの現状が実体ではなく、ただ関係性によって現象としてそうなっていると奥深くわかるときに、本当に苦しくなくなるということです。きっと玄奘は実体験から、この一文を付け加えずにいられなかったのではないでしょうか。

一心塾だより

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