自力と他力
一心塾だより 第90号
「他力本願」の意味を多く人が誤解しているようです。「自分で努力せず、他者にお願いしてやってもらうこと」と理解されることが多いですが、本来の意味は、極楽往生のためには自分の努力(自力)は一切無益で、「すべての衆生を救うのだ」という阿弥陀仏の本願に頼って救ってもらうしかない、ということです。つまり他力とは阿弥陀仏の力のことなのです。
ただ、一般の人には極楽往生も阿弥陀仏も、あまり差し迫った意味を持たないので、「人に頼るのもときには大事だけど、基本的には自分で努力するべきでしょう」と他力本願をどちらかというと悪い意味に捉えてしまうわけです。
あなたの心臓も胃も、他の臓器もあなたを必死に生かそうとしています。身体はそういう本願を抱いているのです。よく観察すれば、自然も、親切な他者も、私たちを生かそう、救おうという本願を抱いていることがわかります。それがわかればもう感謝しかありません。そこに至れば、「私は自分の力で生きてきた。誰でも自分で頑張った者しか救われることはないのだ」という自力の考え方が、子どもじみているばかりでなく、他力の妨げになっていることがわかるでしょう。
自力に頼る人ほど「ありがとう」の言葉が少ないのですが、誰でも若いうちはそういう時期を過ごすでしょうし、その時期を経験することも精神発達上必要なのかもしれません。
自力の基本には自我があります。自我とは「自分」、「自分のもの」という感覚であり、そこに「自分の思いどおりにしたい」というごく普通の欲求が生じます。この欲求があるから、生活がスムーズにできるようになりますし、健康でもいられます。また物事が上達します。自分の人生も思い通りにしようとしますから向上心のもとにもなります。ちっとも悪いものではないのです。
しかし、救おうとしてくれている他力に気づくことなく、そのような尊い存在に対してさえ自分の支配下に置こうとする傾向が自我にはあります。これには重々気をつけなければなりません。ペットの犬も庭の草花も、あなた自身の筋肉も、あなたを救おうとしています。しかしあなたがそれらを自分の支配下に置き、思い通りにしようとしているとしたら、それらの「救いたい」という切なる本願を聴き取れないことでしょう。
相手が言葉を持つ存在、つまり人間であれば厄介です。言葉の影に隠れて本願を感じ取ることが非常に難しいからです。言葉の表面的な意味のみに惑わされて、お互いの自力がぶつかり合い、喧嘩になることもしばしばです。
もしかしたらあなたは、自分が身近な他者を救おうなどとは微塵も思っていないと反論されるかもしれません。そうであったとしても、あなたは周りの様々な存在に生かされていることに間違いはありません。あなた自身そうした存在の一つであることに、いつか気づかれることでしょう。