欲求民主主義で健康になろう

 私は欲求には逆らわないようにしています。欲求は大事なメッセージですから、「~がしたいんだな」と意識化して、そのようなメッセージが出てきてくれたことに対し「いいね、ありがとう」と受け取るようにしています。その時点で欲求のほうも社会的良識を超えてまで“わがまま”を通そうとはしなくなるようです。また「食べたい」VS「太りたくない」というような相反する欲求が出てきたとしても、欲求同士で民主的な話し合いをしてくれます。私は欲求民主主義の議長のような存在です。幾人かの独裁者が世界の平和を乱している昨今ですが、彼らが民主主義を否定するのは、自己の内側の欲求民主主義が実現していないからかもしれませんね。

 誰しも幼い頃は欲求のコントロールが上手ではありません。家族などが子どもの欲求を察して、つまり意識化して(ということは言語化して)、叶えたり我慢させたりしながら、徐々に子どものほうも意識化(言語化)とコントロールができるようになっていきます。

 意識化できるということは、欲求と自分自身との間にほどよい距離が生まれるということです。目の焦点を合わせるのに、近すぎても遠すぎてもはっきり見えないのと同じです。意識化するとは、目の焦点を合わせたり、メガネや顕微鏡や望遠鏡を使って、欲求という対象をはっきり見るということです。

 人間関係でも心理的距離が近すぎたり遠すぎたりすると、相手の欲求や感情が見えにくくなるものです。そう考えると、現代は人間関係のほどよい心理的距離を保ちにくい時代なのかなと思えてきます。昭和の時代のように「何となく一緒にいる」という感じの距離感がいいですね。

 もし欲求を意識化できずにいたら、どうなってしまうのでしょうか。原因不明の精神症状や身体症状として出てきたり、社会的に疑問な態度として表現されたりして、それが本人を苦しい状況に追い込んだりします。ですからゆったりぼんやり瞑想して、出てきたものに「いいね、ありがとう」と民主的に受け止めて、何となく一緒にいてあげるのが良いのです。

 ところで欲求には感情が伴います。今日ここに書いた「欲求」という言葉を「感情」に置き換えても意味は通じるはずです。また欲求と感情の背後には価値観が存在します。何かに価値を感じるからそれを欲しい、やりたいと思うし、それが叶えられないと感情的になったりするのです。価値観の大もとは漠然とした好き・嫌いという感覚です。この好き・嫌いの感覚と欲求と感情が一緒になった塊を「情動」と呼んだら良いと思います。

 大人にもまだ意識化されない多くの情動があるものです。それはからだに何となく感じられているはずです。まずはその存在に気づき、その情動がどんな価値観、欲求、感情を含んでいるのか意識化し、それぞれに「いいね、ありがとう」と理解・受容していくことで、心身が健康になり、また社会的、人間関係的に苦しい状況に陥らないようになっていくと思います。