見えないものを“見る”ために

一心塾だより 第106号

 何かをよく見ようとするとき、適度な間を取って目の焦点を合わせる必要があります。スマホを見るときは大体30cmくらいの間を自動的に取っていると思います。

 しかし、よく見るべきものは、目に見えるものとは限りません。例えば自分の顔や姿勢がそうですし、感情や欲求など、心の中のことも目には見えませんが、よく見えていたほうが良いと思います。他にも、人間関係とか仕事の状況など、見えていないと思わぬ落とし穴にハマってしまうかもしれません。

 でも、私たちは目に見えないものを、どうやって見ているのでしょうか。顔については鏡を見ればよいのですが、姿勢についてはときどき自覚していると思います。「私、背中が丸まってる」と感覚的に“見て”、姿勢を直したりしているでしょう。

 感情や欲求も、ふと自覚します。感情や欲求に巻き込まれている最中はだめですが、少し時間が経って落ち着くと、「私、感情的になってた」と気づきます。これはおそらく感覚ではなく、言語的に自覚するのだと思います。同様に、人間関係や仕事の状況も言語的に自覚するのではないでしょうか。

 言語的な自覚は、見えないものを“見る”上で非常に重要な方法です。しかし、私たちはどのように、見えないものを言語的に自覚するのでしょうか。先程は、「ふと自覚します」と書きました。問題はこの「ふと」はどこからやってくるのかということです。

 冒頭に書いたように、何かを見ようとするときは、対象に対して適度な間を取って焦点を合わせる必要があります。「ふと」という、時間的には数秒の間に、私たちは感情や欲求、状況などに適度な間を取るのだと思います。

 そして間を取ったらすぐに言語化されるのではありません。言語化される前に何かを“感じ”ます。それからその“感じ”に当てはまる言葉が出てくるのです。

 「ふと」は数秒です。しかし、中には「ふと」では間が置けないものもあります。深く巻き込まれてしまっているもの、それが長期にわたるものならなおさら、間が置けません。何日も掛けてゆっくりリラックスしたり、定期的な瞑想を続けたり、丁寧に話を聴いてもらったりしたときに初めて間が置けていきます。ヨガやマッサージなどで身体をほぐしていくことも効果的です。間が置けていないことは、なぜか筋肉の強張りにつながっていることも多いからです。

 子どもは言語的に未熟ということもあって、感情、欲求、状況など目に見えないものに間を置くことが苦手です。でも言語化される前の“感じ”はむしろ豊かに感じていて、遊びやお絵描きなど、言語以外の表現を試みようとするので、身近な大人がその表現を受け止め、理解することで間が置けます。それは子どもの心の成長に不可欠なことです。

 大人は言語的には成熟していても、“感じ”を言語化する機能が錆びついていたりします。そのせいで落とし穴にハマってしまう政治家や芸能人がニュースで取り沙汰されますが、他人事ではありません。見えないものを“見る”ために、意識的に自分自身に間を置く時間を持つようにしましょう。