「空」について
一心塾だより 第76号
ここ山陰では冬の間空は鈍色の雲に覆われていることが多いのですが、3月になると空が開けてきて花も咲き始め、開放的な気分になります。
「どんなに空が曇っていても、雲の上は常に青空なんだよ」。悩んでいる人に対してそんなことを私たちはよく言いますね。心がごちゃごちゃしているときに、俯瞰してみると少しリラックスした感じになります。
同じ空でも空(くう)と言うと意味が違ってきます。「空腹」、「空洞」、「空虚」…つまりカラッポという意味です。それで仏教の「空」をカラッポ、何も無い、「無」と同じ意味に捉えている人は多いのではないでしょうか。そう捉えると、心がカラッポになることが仏教の目指すところ、という解釈をしてしまいそうです。上記の雲の上の空とイメージが似ています。
そういう空(くう)も有意義ではあると思いますが、仏教で説く本来の空は「実体がない」という意味です。「雲」はあたかも実体として存在しているかのようですが、それは私たちの頭がそう認識しているだけで、実際は気象条件によってたまたま現象的にそこに現れるのです。眼の前の机にしてもパソコンにしても、人がそれらを「机」として、あるいは「パソコン」として利用するから机、パソコンになるのであって、猫にとっては「台」であり「主人の関心を奪う迷惑な物体」なのです。
「老い」という問題を取り上げてみましょう。75歳以上を「後期高齢者」などとラベルをつけたりすると「老い」には実体があるように思えてきますが、実際には動きがゆっくりになる、耳が遠くなる、あちこち痛みがある、などなどの現象の寄せ集めです。「若さ」のほうはどうでしょうか。お金がない、経験がない、暇がないなどの現象の寄せ集めです。老いも若きも、直面している現象にどうにかこうにか苦労しながら生きているわけで、「老い」という問題が実体として存在しているわけではない。それが「空」ということです。
人間は概念化が得意です。概念化することであらゆる事柄や問題が単独に実体として存在しているように感じられます。しかし実際はあらゆる事がそれを取り巻く環境との相互作用の中に現象的に生じているのです。
概念化によって人は「私」というものを他(他者や環境)とは独立した実体として認識していますが、実際は他との相互作用の中に生きています。そして相互作用の中で「そう来るか!」と思わせるような変化が起こっていきます。自然界は大きな全体において調和が取れるように変化を生み出しているのでしょうね。それは人間の頭脳の理解をはるかに超えたことのようです。「私はこういう人」という概念、つまりアイデンティティにとらわれていると、この不思議さになかなか付いて行けないかもしれませんね。