「悟り」とフォーカシング
一心塾だより 第11号
秋本番ですね。リンゴ、栗、柿、ピオーネ、色とりどりの果物が店先に並んでいるのを見るだけで幸せを感じます。僕は食べ頃のキウイを二つ買い物かごに入れ、明日の朝食の満足感を想像します。
「僕はキウイが好きだ」と思うとき、僕はキウイが好きな「自分」という存在を少し自覚します。「自分」という一つのまとまりの境界線は結構あいまいなものです。レジでお母さんが子どもをきつく叱って、子どもがふてくされていると、僕はその子の気持ちを「自分のことのように」感じます。
一体「自分」は何で構成されているのでしょうか。まぎれもなく言えるのは、純粋な観察主体あるいは「覚知機能」としての「自」がその中心にあるということです。そしてその周りに、欲求、好み、意思、気持ち、感覚、肉体などがあります。これらは「自分」を「自」と「分」に分けた「分」の方です。マインドフルネスでもフォーカシングでも共通して、「自」によって「分」に気づくことが促されます。気づかないうちは、自分が欲求や気持ちという“フィルター”を通して、世の中を歪めて見ていることに気づくことができません。
覚知機能である「自」によって「分」を観察していると、だんだん「分」が対象化され概念として理解できるようになります。例えば「自分の中に自分を嫌っているところがあって、それがよく自分を落ち込ませている」などと気づき、概念化しているのです。マインドフルネスでは気づきは促しても、概念化まで進んでしまうことは避けます。概念化にはどうしても「分」のフィルターがかかるからです。 例えば呼吸を観察するなど、マインドフルネスでおなじみの方法なら気づきで止めて概念化しないでおくことは可能でしょうが、気持ちの観察となるととても難しいです。
その点、こころの天気の描画はかろうじて概念化の手前にとどまる方法です。「晴れ」とか「雷」とか、一言で言ってしまう場合は概念化されていますが、多くの場合、描画された気持ちは観察されたままの微妙なものを保っています。概念化前の微妙なところにとどまる方法がフォーカシングなのです。それによって私たちは「いま体験していること(体験過程)」に少しの間とどまれるようになりました。
ここで考えなければならないのは、体験過程とは自分の「分」なのかどうかということです。体験過程は「分」ではありません。体験過程はキウイと「僕」の間にあります。体験過程は、叱られてふてくされている少年と「僕」の間にあり、複雑な意味を含み、どんなふうにでも概念化されて行く可能性を含んでいます。私たちは体験過程にとどまることによって初めて「分」のフィルターに影響されず、また早急な概念化に邪魔されず、ものごとをありのままに体験することができます。その同じやり方を「分」にも適用することで、初めて私たちは「分」を「自分」から分離して体験できます。
道元禅師は『正法眼蔵』で「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己を忘るるなり」と述べます。「分」を「自分」から分離して体験することが、「自己を習う」ということでしょう。体験過程に“とどまる”とき、私たちは気づきつつ同時に体験しています。この状態が実は仏教の最高境地である「般若」です。観察者と観察対象が一体化している状態です。これが「自己を忘れる」ということでしょう。ジェンドリンによって明らかにされた「体験過程」は、私たちを「悟り」に急速に近づけてくれます。そのためにはフォーカシングとマインドフルネスの両方の実習が必要です。