諸行無常ってなんだろう

一心塾だより 第101号
私たちは周りのことや自分自身について、「ありのまま」に見ているわけではありません。かなり歪めて認識をしているものです。本当はすぐに何とかしなければならない状況なのに「これくらい大丈夫」と思い込んだり、何でもないことに対して過剰に悲観的になったりします。
そこには癖になっている認識パターンがあり、そのパターンの背後に壁紙のように存在する感情があり、また自分でもあまり自覚できていない奥深い欲求があるものです。
認識パターンは自我に取り込まれ、人格を形成します。自我とは「自分」という意識です。自我はまた多くの認識パターンを「自分」に引き寄せ、雪だるまのように膨れる傾向があります。だから人は自分の認識パターンにこだわりを持ち、他者から間違いを指摘されたりすると自分を否定されたような気になるのです。そこにも感情と欲求が絡まり、また新たな認識パターン「あいつは私のことを理解していない」などが加わります。

仏教で「諸行無常」といいます。平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名ですね。豪勢なものも色褪せ、衰えていく様子を表す言葉と捉えている人が多いでしょう。
「行」とは、心の中に作られていくもののことで、つまり「認識パターン」と考えたら良いでしょう。そして行は自我に引き寄せられて固定化しやすい、つまり「常」となりやすいので、気をつけて「無常」を保つようにする、「諸行無常」とはそういう教えだと思います。
でもどうやったら良いのでしょうね。
最近のエアコンには自動そうじ機能が付いていて、フィルターのホコリを自動で取り払ってくれます。同じように、私たちの認識パターンもあることを心掛ければ、自動そうじ機能で無常が保たれます。
それは、いろいろな情報に触れること、他者の言葉を素直に聞くこと、反発する気持ちがあれば、その気持ちに気づくこと、日に一回、少なくとも一週間に一回、ぼんやり自分と向き合う時間を持つこと、そういうことの実践によって、認識パターンが柔軟になり、より実際の状況に即したものになるでしょう。
でも自我が、長く掃除していない台所の古いエアコンみたいになっていたら、油とホコリでどろどろに固まったその内部を見たくないし触りたくもないですから、ぼんやり自分と向き合うなんてことは多分しないでしょうね。他者の言葉も素直に聞けず、反発してばっかりでしょう。「諸行“常”」で平家の末路のようになりかねません。
向き合いたくないでしょうが、まずは「どろどろ」の部分に気づいて、しっかり観察するところから始めるしかありません。そして掃除するには「どろどろ」と敵対してはいけません。「今まで無視してごめんね。がんばってくれていたんだよね」と感謝すると、ふわふわっと溶けて“無常”となります。
これを何回か行うことで、自動そうじ機能が働きやすくなり、あなたも諸行無常になれますよ。