からだは主人、自分は弟子

一心塾だより 第78号

 ひらがなで「からだ」書くとき、それは肉体とは意味が違います。からだは単に骨や筋肉や血液の集まりではありません。常にからだ全体の調和が取れるように機能していますし、からだを取り巻く環境・状況・人間関係に働きかけてwin-winの関係を築こうとしています。それが生きているということであり、「からだ」とは「生きているからだ」なのです。からだには何億年という進化の過程を経た知恵が蓄えられています。自分の思考など遥かに及ばないほど賢いのに、自分の方はそれに気づこうともせず、常に自分中心に考え続けています。

 からだは言葉を持ちません。それに対して思考は言葉そのものです。そして「自分」という意識(自我意識)を持っています。自我意識が自分中心思考になるのは当然なのですが、からだは「自分」を持ちません。広く大きく調和を保とうとするのみです。ですからもし私たちが自我意識をなるべくなくしていこうと望むなら、からだの意向に耳を傾けるようにしたら良いのです。すると必ずあらゆる面において調和が取れるようになります。

 からだは言葉を持ちませんから、その意向を汲み取って実現に向けてサポートするのが自分の役割と考えたら良いでしょう。主人はからだであり、自分はその忠実な弟子なのです。落語家の弟子は師匠の身の回りの世話を、師匠に命じられなくても気に入られるようにできるようにならなくてはならないのですが、これと同じことです。簡単なことではないのです。自分勝手な欲求や価値観に囚われていては決して弟子は務まりません。

 からだは自然と同じです。からだの意向を汲み取ることと、自然の草木や動物の声に耳を傾けることとは同じです。ただ、自然の場合は対象となる動植物の様子を詳細に知ることがその声を聴く上で肝要なのですが、からだの意向は「感じ」によって汲み取る以外にありません。知識は全く役に立ちません。

 例えば瞑想のときに最初に姿勢を作ります。その姿勢が混じり気なしに「いい感じ」を感じられるよう、弟子として背筋の伸ばし具合、手足の位置を調整してやるのです。これはからだの意向を汲み取るとても良い練習です。「良い姿勢」のお手本や知識は全く役に立ちません。

 日常のあらゆる場面で、主人たるからだの感じに注意を向けるようにしてみましょう。会話しているとき、食べているとき、スマホを見ているとき、からだは「いい感じ」でしょうか。「いい感じ」にもいろいろあります。「心地よさ」「落ち着き」「奮い立つ感じ」「楽しい感じ」などなどです。もし「いい感じ」でないなら、どうしたら少しでも「いい感じ」に近づけるのでしょうか。弟子として試行錯誤してみてください。