貪瞋痴とフォーカシング
一心塾だより 第81号
仏教で煩悩のことをよく「貪瞋痴」といいます。貪は強い執着や欲求、瞋は怒りなどネガティブな感情です。そして痴とは智慧ちえがない状態のことをいいます。智慧がない状態だから貪瞋が出てくるわけです。
貪瞋をひっくるめて「情動」ということにします。情動のすべてが悪いわけではないのですが、自分や他者を困らせるような情動のことを想定してください。それは誰にでもあるものだと思います。
なぜそのような情動が生じるのでしょうか。それについて仏教は五蘊で説明します。五つの蘊(色・受・想・行・識)のことは般若心経にも出てきますね。ある対象(色)に出会ったり思い出したりしたとき、からだに「どよ~ん」とか「はぁ」とか反応(受)が生じます。例えば苦手な人物を思い出したとき、そんな感じではないでしょうか。そこからいろいろな連想(想)が出てきて、その思考が固定化してしまい(行)、その苦手な人物は“そのような人”という価値観や信念が作られます(識)。ですから、本当にその人に出会ってしまったらもう純粋に見ることができず、色付けされたフィルター越しに見てしまいます(だから「色」なんでしょうね)。智慧がないとき、五蘊はこのような循環を起こすのです。
ではどうすれば情動から抜け出せるのか、言い換えればどうすれば智慧を取り戻せるか、そこが肝心です。まず「想」に気づくこと。つまり湧き上がる連想に巻き込まれるのではなく、「こんなことが思い浮かんでいるな」と気づくことです。そう、マインドフルネスです。常々私たちのヨーガ教室の瞑想において耳にタコができるほど言っていることであります。
「想」が臭いだとすると、「受」は臭いの元です。からだの反応に気づくことは、連想に気づくよりもっと大事なことかもしれません。苦手な人を思い出して「どよ~ん」となっていることに、ただ気づきます。すぐに「だって・・」「仕方ないじゃん・・」と、取り繕うような言葉が「想」として出てきがちですが、それには巻き込まれず、「どよ~ん」そのものを認識しつつ、ただゆっくり呼吸します。
「だって・・」と連想が出てくるのは、「どよ~ん」に対する善悪の評価を無自覚的にしてしまっているからです。それは「行」や「識」の仕業です。善悪判断なしに、ただ気づくようにすることが最も大事です。善悪判断しないということは、その背景には「全て善いものである」という慈悲の心があります。暖かく優しく、あるがままに見守るのです。
さて、もう一度「想」に戻りますが、連想にはからだの反応をうまく表現する試みも含まれています。そしてうまく表現されるとからだの反応はスッと軽くなります。善悪判断からの連想ではなく、また行・識に影響されたパターン思考でもない連想は、実はとても私たちの心の健康に役立っているのです。このように連想の質を区別できるようになれば、五蘊は解消されることでしょう。
フォーカシングを実践されている方は、ここまでの話がフォーカシングの考え方によく似ていると思われたことでしょう。「受」はフェルトセンスと考えて良いでしょうし、それに気づくことはすでにフォーカシングです。また五蘊の循環はフェルトセンスが固まってしまった状態を指す「構造拘束」と言えるでしょう。次の記事で五蘊とフォーカシングの関連を述べたいと思います。