雑念が湧く理由と活かし方

一心塾だより 第82号

 雑念は心が散漫な状態のときに生じる無価値なもの、邪魔なもの、雑なものと認識されて来たと思います。 

 「雑」という漢字は「まじる、まとまりがない、大まか」などの意味があります。人の理性はまとまりがあるもの、純度が高いもの、精細なものに価値を置き、そこを目指すよう自他を仕向けがちではないでしょうか。しかしそれは雑草取りに象徴されるような大変な労力を伴うことでもあります。

 瞑想しようと目を閉じると、いつの間にか雑念に浸ってしまっている自分に気づくことが多いと思います。「一つ一つの雑念を葉っぱに乗せて川に流し、執着しない」。マインドフルネス瞑想ではそんな教示がよくなされます。

 しかし、雑念とはただ流されるために湧いて出たのでしょうか。生じるものには、生じるべき何らかの意味があるのではないでしょうか。

 「雑」を含む熟語は非常に多いのですが、真っ先に思い浮かぶのは「雑草」でしょう。「雑草という植物はないのですよ」と、かの牧野富太郎氏と昭和天皇は仰せになったそうですが、植物はその種ごとに生き方の戦略があり、昆虫などとの共生があるはずです。「雑多」な仕事が世に存在し、それぞれが有機的に繋がりあって我々の生活や経済を支えています。最近「多様性」という言葉をよく耳にしますが、「雑」を肯定的に言い換えた言葉と考えてよいのではないでしょうか。

 間違いなく言えることは、まとまりがあり純度が高いものは、もしその生き方・ありようが適応できない環境や時代になったときに全滅してしまう、あるいは顧みられなくなるということです。地球上の多くの種が環境の変化によって絶滅していますが、それでも現在に命をつなぐ種が無数に存在しているのは、「雑」の力と言えるのではないでしょうか。

 地球上の生命の圧倒的多数は「雑」であり、ただ人間のみがホモ・サピエンスという単独種です。この単独種が様々な状況・環境に対応できたのは、雑念によって状況の概念化や再概念化を自動的に繰り返しながら、対応のためのシュミレーションを練ってきたからではないでしょうか。つまり雑念によって自動的なフォーカシングが行われているのです。

 雑念が湧く理由について、次の3つを考えてみました。

① 状況に対応するための自動的なフォーカシング。
② 感情が動いた事柄について、その感情を消化するための、自動的な脳の反応。
③ 印象に残っている事柄を思い出しつつ、長期記憶にとどめるための自動的な脳の反応。

 雑念が集中の邪魔になるのも確かですが、リラックスして雑念に浸っていると、とても気持ちの良い集中状態に入ることもあります。雑念は自動的に湧きますが、実は集中も自動的に生じるものかもしれません。それは一番無理のない集中でしょう。

 もしよかったら雑念を肯定し、楽しんでください。千の雑念の一つくらいは、あなたに新たな可能性を開いてくれるかもしれません。

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