からだを柔軟にする
私がヨーガを始めたのは23歳のときで、それまで運動や体操とは縁がありませんでしたから、前屈したら指先がつま先にやっと届くぐらいじゃなかったでしょうか。開脚は90度くらい。後ろに手をつかないと姿勢を保てないほどでした。
広島のヨ-ガ教室に通い始め、初めて体験したときは、「自分が求めていたのはこれだ!」と確信めいたインスピレーションがありました。大学を出てそれなりの会社に就職しましたが、どうも違うなあと退職してふらふらしていた頃ですから、なおさら感動が深かったかもしれません。
日曜以外毎日通える教室でしたので、とにかく通えるだけ通ってがんばっていたのですが、「べた~と開脚」、「二つ折り前屈」とはまったくいきませんでした。また、たった5分の瞑想が辛くて、先生にお願いしてパスさせていただいてました。
その先生にインドに連れて行ってもらって、グル(ヨーガの師)を紹介してもらい、その家で半年間ホームステイさせてもらいながら、ヨーガにまつわるあらゆることを教えていただきました。しかしそれでも身体は柔らかくなりませんでした。瞑想はだんだん好きになりましたが。
グルの家では屋上で子どもを対象としたヨーガ教室が開かれていて、子どもたちの柔軟性といったら、中国雑技団並みです。それを見て私は、子どものうちからやらないと柔軟にはならないんだと、あきらめが付きました。そして、スピリチュアルの方で精進しようと思った次第でした。それから三十数年はずっと同じ気持ちでいたのです。
ただ、フォーカシングに対しても「これだ!」とひらめいて、のめり込んでいましたので、フォーカシングとヨーガの比較は、この三十数年静かに進行していきました。その結果、「フェルトセンス(意味を持ったからだの感じ)と筋肉はとても良く似ている」と思うようになったのです。
フォーカシングでは違和感を醸すフェルトセンスに対して、「そこにそういう感じがあるんだね。わかったよ。しばらく一緒にいるね」とやさしく寄り添うようにし、フェルトセンスが何をこちらに伝えようとしているのかを思いやります。フェルトセンスの思いをこちらが理解して受容することができれば、フェルトセンスはスッと消えたり小さくなったりします。これがシフトです。シフトするととても爽やかな感じを味わいます。フェルトセンスはからだが発する願いの一つなのです。
同じように筋肉に接してみようと思ったわけです。あるアーサナ(ポーズ)を行うと、いくつかの筋肉が伸びます。それらをきちんと意識し、息を吸いながらそれらの思いを感じ取ります。「それ以上は無理!」、「気持ちいいよぉ」、「ゆっくり頼むよ」、「もっと引っ張ってみて」、「もっと動きたい!」、「さあ、力を出すよ!」
そして息を吐くときにこちらの思いを伝えます。「いつもありがとう」、「お陰さま」、「大事にするからね」、「もっと伸びて欲しいな」。
呼吸を通じた筋肉との対話によって、筋肉はとても素直になったと思います。この1年で急速に、べた~と開脚、二つ折り前屈に近づきつつあります。それぞれの筋肉は言葉を持ちませんが、確実に意志を持っています。ですから、「体内民主主義」とでも言うべきでしょうか、つねづね声なき声に耳を傾けつつ生活しています。
そのようにしていると、筋肉は無理しないことばかりを願っているわけではないことがわかります。ときにはぐっと力を入れたい、素早く動きたい、そんな声を聞こえてきますので、「わかったよ」というわけで、筋トレやジョギングも習慣になりました。
からだもフェルトセンスも大いなる自然の一つの現れだと思います。それに対して素直でいようとすることは、自然への畏敬ときっと同じことなのだろうと思います。