言動の裏の裏に情動あり

一心塾だより 第83号

 私たちの普段の言葉や行動は“自分なりの正当性”に裏付けられています。その正当性とは、次のA、B、Cの3つに分類されると思います。

A:「なんとなく世間はそうだから」という正当性。

B: 親や先生や上司などに「そうしなければならない」と教え込まれた正当性。

C: 自分の信念に根ざした正当性。

 Cがマシなようですが、自分の信念といえども、AやBの影響がないとはいい切れないこともあります。また信念に根ざした正当性がとても厄介であることもよくあります。

 当然のことですが、“自分なりの正当性”は真の正当性とは言えません。他者も同様に“自分なりの正当性”を持っているわけですから、正当性同士でぶつかり合ってしまいます。夫婦で、親子で、職場で、友人同士で、あるいは国家間で、この問題はうんざりするほど毎日起こっています。

 問題解決の第1段階として、“自分なりの正当性”の根拠がA、B、Cのどれなのか振り返ってみることを、まずお勧めします。そうすれば、相手の正当性の根拠についても考えるようになるでしょうから、多少は二者間の真の正当性に近づけるかもしれません。

 さて、もう一歩進めましょう。自分なりの正当性の根拠がCの自分の信念に根ざしたものである場合、その信念の背景には情動があります。あるいは物語があると言っても良いかもしれません。

 情動とは感情や欲求や身体感覚が入り混じったものです。その情動が生じるのにその人の何らかの過去の物語が関係しているのです。例えば、子どもへの過干渉が止められないお母さんの“自分なりの正当性”の背後に、そのお母さん自身が「この子には絶対に自分のような不幸な思いをさせたくない」という何かの物語に起因する情動があるのかもしれません。

 このお母さんの「不幸」については、その物語をしっかり聴かなければなりません。その時初めて自身の「不幸」と子どもの不幸を連動して考える必要がないことがわかるでしょう。また「不幸」と決めつけていたことが、お母さんのこれまでの素晴らしい努力によって、すでに克服されかかっていることがわかってくるかもしれません。

 個人の物語はよく聴かれることで違った物語に編纂されるものですし、それによって情動がサラッとしたものに変化していきます。するとそれによって“自分なりの正当性”も変化して、真の正当性に近づくことも可能になることでしょう。私たちが小説に心動かされたり、ドラマにのめり込むのは、自分の物語を刺激するものがあるからではないでしょうか。

 ところで自分の物語を自分で聴くことはできるのでしょうか。それはやはり書くことによるのでしょう。物語と情動の関係を最も短く表すものは短歌だと思います。秋の夜長に31文字に挑戦してみてはいかがでしょうか。